誰でも一度は、処女だった

 文化系トークラジオLifeの放送で千木良悠子さんとお会いして、 そのときに辛酸なめ子さんとの共著、 「誰でも一度は、処女だった」をいただきまして 「よかったら感想おしえてくださいね♡」と言われまして 「は、はいっす! ブログに載せて宣伝するっス!!」と返したものの 、帰宅して読んでみて、うーん。
 書けないのです。


 なんにも、一言も出てこない。
 なんだこれ。
 なんだこの感じ。


 そのころに丁度雨宮まみさんのブログ で「誰でも一度は処女だった」が紹介されていたんですよね。
 彼女曰く、「しんどくって、最後まで読めなかった」だそうです。

 別に全文が漢文で書かれていて読みにくいとか、もちろんそういうしんどさじゃないですよ。
 ぱっと見るとすごく読みやすいはずなのに。
 でも私も途中で何回も詰まってしまって、読み終えるのにひどくひどく時間がかかってしまいました。


 なんなの?
 この本は。
 なんでこうまで非処女の心を掻き乱すの?


 「誰でも一度は、処女だった」は、千木良さんのお母さんに始まり、友人、おばあちゃん、処女を奪った経験のある男性や同性愛者など関係性も年代もさまざまな総勢56人に淡々と処女喪失についてインタビューしたものが収められています。
 でもさ、処女喪失インタビューなんてさ、そこらへんのエロ本とか、女性誌のエロ特集なんかにもしょっちゅう載ってるし、どこにでもあるしありふれてるのに。の、はずなのに。


 そもそも女友達同士なんかで処女喪失について語ったとしても
A・「好きな人に処女捧げられて幸せだった〜」
B・「焦ってたから適当な人に膜を破ってもらった」
の2パターンくらいしかないんですよね。 それに「すげぇ痛かった」とか「こんなもんかー、って思った」とかのちょっとした派生があるくらいで。


AV女優インタビューだと
C・「エッチなことに興味深々で、いっつもおち○ぽを想像しながらオナニーばっかりしてて、だから初めてリアルチ○コを挿入されたときは気持ちよすぎて白目剥いちゃいました♡」 が加わるだけです。

結局みごとな3パターン。
これが世の中で語られる処女喪失のすべて。


 けれどその3パターンは、3パターンだからこそあまり深く語られることがありません。
 だいたいは浅く話して少し笑って、そこでおしまいになってしまう。
 それなりに好奇心が満たされて、ちょっとした笑いを期待される場で処女喪失について語る機会が多すぎて、そのたびに簡略化した処女喪失話を繰り返して、いつのまにか自分の処女喪失が本当にシンプルで他愛のないものだと思えてきてしまう。 なんかそれって気持ち悪いよね。



 やっぱり、「誰でも一度は〜」に載っているインタビューだって、若い女子たちの話はこの3パターンに分類できます。
 みんな処女喪失について3パターンで語られたものを見聞きした経験があるし、3パターンで語ったこともあるのでしょう。そんな感じ。


 でもそれを千木良さんがじっくり聞くんですよね。
 そうすると、どんどんボロが出てくるのです。
 話しているうちに「あれっ、でもこれでいいの? 私の処女喪失って、こんなんだっけ?」って気付いちゃって、それに疑問を抱いたり、それでもむりやり3パターンのうちのひとつをつらぬこうとしてみたり。ざわつく非処女の心の内が見えるのです。

 
この本では最後に千木良さんが自分の処女喪失について語ろうとします。
「なんで私がよりにもよって自分の初体験の話なんて書かなきゃいけないんだ。いやだ!」という、外野からみるとあきらかな矛盾を抱えながら、自分の処女喪失について語りはじめます。


 それはごく普通の、本当によく聞くような、何の変哲もない処女喪失だというのに、千木良さんは「書いていてなんだか涙が出てきた」と綴るのです。
 あれだけの人数の処女喪失インタビューを丁寧に、時に根掘り葉掘りこなしたいい大人が、自分の処女喪失のディティールをぱらりと書くだけで泣いてしまう。
 でもね、それがたぶん処女喪失について正面から考えることを試みた女のとる、正しいリアクションだと思うのです。